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不在

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変・強・変・具・変といえば、デレマスの一ノ瀬志希は念能力者ならば間違いなく変化系であり、自らの念を非念性の化学物質に変える能力を持っており「変化系能力者は念を自分の体から切り離すこと(放出系)が不得手」という変化系の弱点を一部克服しているのではないか? と考えていた。

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ついついいろんな本に手を出しては、あれを読みかけこれを読みかけで終わらせてしまう。せめて「変・強・変・具・変」ぐらいのローテーションで併読したい。

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使っている財布がそろそろボロボロのボロっちで、買い替えたいが愛着が湧いていて変えたくない……。

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最新のスマホならデジタル一眼並に綺麗に撮れるしデジタル一眼より遥かに持ち歩きやすいよ、と言われても、スマホでは撮る気がしないのでしょうがない。

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「この話をどう転がすのだろう? どう決着をつけるのだろう?」という、鑑賞における興味(個人的に重要な興味)のみを見れば、純文学もミステリと大差なく面白いという感想を抱いた。(なぜミステリのことを考えたかというと、一時は親しんだジャンルだし、私は作者の手際のよさに感嘆するためにミステリを読んでいる節があったからである)

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そういやノエル・キャロルの『ホラーの哲学』をまだ読んでなかった。

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結局、フィクションにおける恐怖とは、「怖い」とはなんなのか? と思いもするが、私自身は大変怖がりなので、だいたいのホラーは怖くて見たくないのであった。

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しかし、生理的な嫌悪感=本能に根ざした嫌悪感に訴える恐怖こそ考えようによっては「真の恐怖」だろうか?

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コンジアムは確かに怖いと思う一方、別に怖くないとも思う。コンジアムに出てくる「白目が全部黒い女」は確かにものすごく怖いが、なんで廃病院に白目が全部黒い女の幽霊(?)が出るのか? なんで目が黒くなきゃいけないのか? と考えると、あれは単にびっくりさせる、または(そして)生理的に嫌悪感を抱かせる、というだけであり(だけといってもそれが怖くもあり面白くもあるのだけれど)、私の考えではそれは真の恐怖ではない。しかしコンジアムが怖いことは確かである。

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純文学と怪談は距離が遠いようでいて、だいたいの作家は怪談を書いているため実は大変距離が近い。

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そういやPS5でホグワーツ・レガシーとかやってもいいんだなぁ。

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Twitterアカウントの削除を真剣に検討した。Twitterではなくて今はXだった。アカウントを削除するには、まずTwitter連携(X連携?)をなんとかしないといけないことに気づいた。

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YouTubeに「興味なしではないがYouTubeで動画を見ようとは思わない」「興味はあるが最近は見たい気分じゃない(またそのうち見たくなるかも)」といったボタンを追加してほしい。

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それにしても何かしら怪奇幻想的なものを読みたかったので文庫本ボックスから『室生犀星集 童子 文豪怪談傑作選』を取り出す。

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感情移入できる登場人物たちが酷い目にあって、結局酷い目にあったまんま死んじゃったりすると後味悪くて悲しい。

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「ホラーは後味悪いから好きじゃないな……」というかなり根源的なところに気づいてしまった。

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今度ちくま学芸文庫で出るチェスタトン『聖トマス・アクィナス』、絶対読まないだろうけど買っておきたいというタイプの本で買うか悩む。まあ買う。

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コンジアムは怖いけど最終的にはそんなに怖くない映画という印象が残っている。RECみたいなお祭りホラーの枠。いざ本気で見返したら結構怖いとは思う。

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コンジアムのラストって「怪奇現象により実は生配信できていなかった」というオチで、醒めきった視聴者たちのコメントが流れて終わるわけだけども、考えてみると「有名な心霊スポットから生配信するため現地に突撃した配信者たち7人が忽然と消息を絶った」という事実は残るので、ある意味オカルト界隈の有名人にはなれるのでは? とふと思った。7人が一晩で行方不明って相当な事件だし。(どうでもいいが「生配信出演者の一人・ジヒョン(最初にカメラを回しつつカフェで待機していた女の子)は実はコンジアム側の怨霊なのではないか」という考察?を見かけたことがあり、もしこれが事実だとすると行方不明になったのは6人になる)畳む

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調べたいことがあったので1億年ぶりにNetflixにログインしたら、コンジアムが目に入って見たくなってしまった。コンジアム、何度でも見たくなるいい映画。