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不在

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やらないといかんことが溜まっているのだが疲れてぼんやり。

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カメラについて悩んでいる関係上、Twitterのフォトグラファー系アカウントをちらちら見ているのだが、結構みんな当たり前のように「エモい」という言葉を使っていて、写真に対しては鋭敏でも言葉の扱いは雑なんだなと思った。まあ美しい風景を撮って「美しい景色を撮りました」と言うことはおかしくもなんでもないのだし、「エモい」というのもそういう一般的な単語として定着してしまったのかな。表現者自身がそのものの良さや素晴らしさを「エモい」という言葉に無邪気に託してしまうのはダサいと個人的には思う。

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「宅急便」と書きたいところを「宅急急」と書いてしまった。

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昔カメラを持っていた頃は、王道の標準レンズである50mmがなんかピンと来なくて使いづらかった。中途半端に感じられて。

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ウムムな日々。

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果たして自分は「カメラを持ち歩く人」になれるのか? と自らに問うている。(問うている時点でダメなのではという気もする)

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大きなカメラと書店趣味は相性が悪い(カメラも本も重いので……)。

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歩いていて良い光を見つけると「ああ、今カメラがあれば!」と思う。でも手の中にカメラはない。それが全てでありそれがいけない。とにかくまずは持ち歩かねばならない。街中で「あの人カメラで写真なんか撮ってる」とか「あの人カメラなんかぶら下げてる」とか思われるのが恥ずかしいのだけども、しかし実際のところ他人は他人のことをそんなに気にしないだろう。あの人なんか撮ってるな、と一瞬思って通り過ぎて終わりだろう(ストリートスナップなどで自分にレンズが向けられていたら話はまた違うだろうが……)。自分自身を振り返ってもそうだ。自分の場合はカメラに興味があるので、せいぜい、どこのカメラかしらとか、キヤノンだなとかオリンパスだなとか思うぐらいである。たまにライカを首から提げているご老人など見ると二度見ぐらいはしてしまう。それで問題は、持ち歩くためのカメラなのだが……。

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購書断ちをしていた。積んでいる本が無限(うそ)にあるので本を買わなくても読む本に困ることがない……。(もちろん買えるなら買いたいのだが節約しているのだった)

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『改訂 文学入門』読み終わり。「城の崎にて」を読んでみたくなった。

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しかしもちろん、読んでハッとなった詩がないわけではない。確か、もともと別の誰かの本(荒川洋治のエッセイででもあったかもしれないが定かではない)で目にして、ハッとなって元の本を買い求めたのが飯島耕一の『ゴヤのファースト・ネームは』で、この詩集の表題作が当時の私の胸に来たのだった。今読んでも、ぐっと来る。序盤だけ引用。

 何にもつよい興味をもたないことは
 不幸なことだ
 ただ自らの内部を
 眼を閉じて のぞきこんでいる。

 何にも興味をもたなかったきみが
 ある日
 ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
 隣の部屋まで駈けていた。

(飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』青土社)

なんかわからないがここを読むと泣いてしまう。

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詩集や歌集や句集や写真集って、買ってみても例えば誰かがエッセイに書きそうな具合に「その詩が(または句や写真が)私の心を貫いたのだ」なんてことはほぼないし、「へえー」という感じでさらっと読んでしまうので自分にはもったいないなとあまり手を出していないのだけども、しかし「あっこれはちょっといいな」みたいなものが少しずつ積み重なって人生になっていくのかもしれないし、ある時突然「あの詩(または句や写真)を今、見たい!」と思うのかもしれないし、とにかく何か引っかかったなら積んでいくのがいいのかもとも思う。

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『ゴアグラインド・ガイドブック』、買うぞと思っていたがなんとなく予約という気分でもないうちに発売日になってしまった。今はあまりそういう気分ではないが、買わずに絶版になったら後で悔やみそうだし、買っておくか……?

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「ねこ」という単語は、丸っこくて、見ただけでなんだかほっこりとした気持ちになるので良い。

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どうするかな〜ということを考え続けて夜ふかししてしまう日が続いているのでそろそろ決着をつけたい。

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「バカじゃないのか」と言ったって、今回の対象の一人一人に「あなたはバカなんじゃないですか」と言いたいわけではない。一人一人の個人ではなくその品性、その感覚の最大公約数的なものに「バカじゃなかろか」と思うのだった。(もちろん個人に対して思うこともある)

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大阪淀川のクジラ、どうやら弱っていて死を待つのみらしい生き物に淀ちゃんとか名前をつけてバカじゃないのかと思っていた。自然の環境を生き抜けなかったらしく死ぬしかないクジラに子供が「がんばれ」と声をかけるのは、まだ道理がわかっていないのでしょうがないけれども、いい大人が淀ちゃんとか呼ぶものじゃない。なんといっても途中からはどう見たって死にゆくのみだったのだから。

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庄野潤三の『エイヴォン記』をちびちび読み進める。

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インディーズで評判のいいゲームは意外にもSwitchにどんどん移植されるから、ゲーミングPCを買わずにPCゲームの中小タイトルを楽しみたい(そして別に発売直後に遊べなくてもいい)なら、PSよりSwitchなんだよな……。大作タイトルならゲーミングPCかPSかXboxを買うしかないが。

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たぶんPS5も必要か不要かでいうと不要だったのだが(そこそこのスペックのゲーミングノートがあるので)、サイレントヒル2リメイクのPS5版が出てからPC版が出るまでの一年間、いつも見ているゲーム実況者が「穴を落ち続けた先に…… 【SILENT HILL 2】 #6」とかのタイトルのプレイ動画を上げ続ける状況をただ座して見ていることは絶対にできないし、もし先日PS5を買っていなかったとしても今年中にはPS5の供給が潤沢になってくるらしいのでサイレントヒル2リメイクが出たタイミングで買ってしまっていただろう。