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不在

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不在、不要、無意味。

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疲れている。

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長編ホラー小説って、長いこと読んだ末に感情移入した主人公たちが酷い目にあって終わったりして悲しいなと思った。

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怪奇小説のアンソロジーや上製本に関する夢を見た。

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別の本というのはみすず書房の『ゴースト・ストーリー傑作選』で、発売当時(その頃はまだ怪奇小説に大して興味がなかった、というのも2009年のことなので!)に書店の棚で見かけたのがなぜか異様に印象に残っていた。みすず書房でゴースト・ストーリーというのが意外だったのかもしれない。もちろんというか今は絶版で、時たま「あの時に買っておけばよかった」とくよくよしていたのだが、先日急に2000円ぐらいの出物を見つけてうきうき注文したのだった。やっと、あの時のあの本棚に手を伸ばせたような嬉しさがある。

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それにしても怪奇小説はアンソロジーが多い。怪談は短編が多いからだろう。

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別の本を買うついでに注文した『怪奇小説の世紀 第2巻 がらんどうの男』が、収録作もなかなか面白い、編者後書きの「好事家志願」が怪奇小説とその愛好家への愛に満ちた予想外にしんみりする良い文という具合で、めっけものだった。

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人と鬼の二つの種族が対立しているような世界では、「殺人鬼」は鬼界においての褒め言葉となりうるのだろうか?
人族と鬼族が同一の(あるいは類似した)語彙を持つのは前提として、鬼族が自らを「鬼」と認識している作品世界と、人族およびその作品の鑑賞者から見た「鬼」族が自らを指して鬼とは言わない(例えば彼らは「オーガ族」を自認しているとかの)作品世界とでは、どちらの方が鬼という言葉の扱いはややこしくなるだろうか?

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面白そうなのだが、実際開いてみたら全然意味がわからない可能性があるので実物を見て買うか決めたい本:

メタファー学のパラダイム
https://www.ajup-net.com/bd/isbn978-4-58...

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鬼滅の刃の登場人物たちは「殺鬼人」である。(殺人鬼が人ヲ殺ス鬼[のような人間]であるのに対して、鬼ヲ殺ス人たちなので)

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D・A・ノーマン『人を賢くする道具』(ちくま学芸文庫)によると、「至高の体験」(いわゆるフロー状態)の助けになる環境とは:

・インタラクションとフィードバックが豊富にある。
・明確な目標ときちんとしたルールがある。
・動機づけがある。
・常にチャレンジの感覚がある。(以下略)
(『人を賢くする道具』p.72)

であるらしい。
これらはまさしく現代のゲーム(特にアクションゲーム)が備えている特徴で、今のゲームがいかにプレイヤーの興味を獲得し持続させるよう進化してきたのか感心してしまった。
『人を賢くする道具』でも当然、ゲーム(1993年に存在するか想像できるゲーム)が人間を「至高の体験」モードにいざなうものであることは触れられているが、現代のゲームはこまめに目標を提示してプレイヤーを誘導したりと、ますます洗練されている。(もっと挙げられる箇所があるはずだがぱっと言語化できない)

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逆に、なぜAIに架空の写真や絵を作らせるのは比較的容易なのだろうか?

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FF5が最新のRPGだった頃を知っているのでFF5あたりがレトロゲーム扱いされていると違和感を覚えるのだが、レトロゲームという単語は歴史に対して絶対的ではなく相対的なものなのだろうと考えて一人で納得した。
つまり「昔」という言葉が時間に対して相対的なんだな。

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セブンイレブンのカレーフェアのカシミールカレー、食べている最中は「期間中にもう一度くらい買ってみてもいいかな」ぐらいに思っていたのが、今はまた食べたくて仕方がない。確かにおいしかった。

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「忍者は何人じゃ」みたいな駄洒落でなく駄のつかない洒落だったとしても、語呂合わせのタイトルは「うまいこと言った感」が出るもので、その「うまいこと言った感」がシリアスな物語においては余計になる場合があるのではないかと感じる。言葉遊びは遊びに過ぎない。そこで言葉遊びをする必要があるのだろうかと思うのである。
しかし、言葉遊びは(本能的に?)楽しいもので、うまいこと言った感のあるタイトルは全くうまくないタイトルよりは良いだろうし、やってしまっても仕方ないかもしれない。

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リンツのスイスシン(Swiss Thins)のミルクオレンジというチョコレートをもらったのでポリポリ食べている。薄さが食べやすくておいしい。

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『人を賢くする道具』を読んでいる。昔(1993年)の本だがためになりそう。

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AIに絵を描かせるのが流行っているので、AIが絵と同じぐらい小説やその他の言語芸術をものにする日はやってくるのだろうかと考えた。いや、いつかやってくるのはほぼ確実だから、いつやってくるかと問うべきかもしれない。AIがゼロから(というのは、せいぜい人間が与えたいくつかのキーワードやテーマから)、首尾一貫したストーリーと優れた描写を持ち、ぱっと見には人間が書いたように見える、時には人間に深い感動すら与える長編小説を出力する日はいつになるのだろうか?
つまり、AIというか意識を持たない機械が、ストーリーをほぼゼロから考え出し、それを鑑賞者に伝えるための要素を効果的に配置し、一つの作品として仕上げる日はいつになるのか?

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佐川急便が荷物の引き取りに来た。

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ここ最近の無理が祟って、寝ても寝ても眠い。