不在
2023-01-24
十何年前だったか、当時はニヤニヤ笑って読んだだけだった「白熊座の女は真夏の夜にここぞとばかり舌を鳴らす」だが、あらためて読むと架空の評論家による架空の作家についての架空評論パート、架空の作家による架空寄稿パート、オ鈴木隆とマク佐藤宏の架空対談パート、全ていかにも「ありそう」な感じの文章でよくできている。
2023-01-24
みんな一度「白熊座の女は真夏の夜にここぞとばかり舌を鳴らす」を読んでみるべきだと思っている。「なんだあ、こりゃあ、くだらねえ」と言うなら……その通り!(そこがよい)
いつでも“作家のオ鈴木隆氏(アイルランド系)と文芸評論家のマク佐藤宏氏(スコットランド系)”で笑えるような人間でありたい。
深堀骨の作品
https://bungei.net/bun/hone.htm
いつでも“作家のオ鈴木隆氏(アイルランド系)と文芸評論家のマク佐藤宏氏(スコットランド系)”で笑えるような人間でありたい。
深堀骨の作品
https://bungei.net/bun/hone.htm
2023-01-22
カメラについて悩んでいる関係上、Twitterのフォトグラファー系アカウントをちらちら見ているのだが、結構みんな当たり前のように「エモい」という言葉を使っていて、写真に対しては鋭敏でも言葉の扱いは雑なんだなと思った。まあ美しい風景を撮って「美しい景色を撮りました」と言うことはおかしくもなんでもないのだし、「エモい」というのもそういう一般的な単語として定着してしまったのかな。表現者自身がそのものの良さや素晴らしさを「エモい」という言葉に無邪気に託してしまうのはダサいと個人的には思う。
2023-01-21
歩いていて良い光を見つけると「ああ、今カメラがあれば!」と思う。でも手の中にカメラはない。それが全てでありそれがいけない。とにかくまずは持ち歩かねばならない。街中で「あの人カメラで写真なんか撮ってる」とか「あの人カメラなんかぶら下げてる」とか思われるのが恥ずかしいのだけども、しかし実際のところ他人は他人のことをそんなに気にしないだろう。あの人なんか撮ってるな、と一瞬思って通り過ぎて終わりだろう(ストリートスナップなどで自分にレンズが向けられていたら話はまた違うだろうが……)。自分自身を振り返ってもそうだ。自分の場合はカメラに興味があるので、せいぜい、どこのカメラかしらとか、キヤノンだなとかオリンパスだなとか思うぐらいである。たまにライカを首から提げているご老人など見ると二度見ぐらいはしてしまう。それで問題は、持ち歩くためのカメラなのだが……。
2023-01-20
しかしもちろん、読んでハッとなった詩がないわけではない。確か、もともと別の誰かの本(荒川洋治のエッセイででもあったかもしれないが定かではない)で目にして、ハッとなって元の本を買い求めたのが飯島耕一の『ゴヤのファースト・ネームは』で、この詩集の表題作が当時の私の胸に来たのだった。今読んでも、ぐっと来る。序盤だけ引用。
何にもつよい興味をもたないことは
不幸なことだ
ただ自らの内部を
眼を閉じて のぞきこんでいる。
何にも興味をもたなかったきみが
ある日
ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
隣の部屋まで駈けていた。
(飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』青土社)
なんかわからないがここを読むと泣いてしまう。
何にもつよい興味をもたないことは
不幸なことだ
ただ自らの内部を
眼を閉じて のぞきこんでいる。
何にも興味をもたなかったきみが
ある日
ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
隣の部屋まで駈けていた。
(飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』青土社)
なんかわからないがここを読むと泣いてしまう。
2023-01-20
詩集や歌集や句集や写真集って、買ってみても例えば誰かがエッセイに書きそうな具合に「その詩が(または句や写真が)私の心を貫いたのだ」なんてことはほぼないし、「へえー」という感じでさらっと読んでしまうので自分にはもったいないなとあまり手を出していないのだけども、しかし「あっこれはちょっといいな」みたいなものが少しずつ積み重なって人生になっていくのかもしれないし、ある時突然「あの詩(または句や写真)を今、見たい!」と思うのかもしれないし、とにかく何か引っかかったなら積んでいくのがいいのかもとも思う。
2023-01-20
『ゴアグラインド・ガイドブック』、買うぞと思っていたがなんとなく予約という気分でもないうちに発売日になってしまった。今はあまりそういう気分ではないが、買わずに絶版になったら後で悔やみそうだし、買っておくか……?