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不在

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岩波書店の新刊『哲学がわかる 懐疑論』を買った。「良い懐疑論と悪い懐疑論」というテーマは個人的に以前から気になっていたところなので。

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ホグワーツ・レガシー面白そうなんだけども、「ハリポタ好きなら絶対楽しめる!」などの感想を見ると「いやそんなハリポタのファンでもないしな……」とためらってしまう。多分ハリポタ知らなくても楽しめそうだとは思う。

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家の中の方が寒い。

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Twitterで写真アカウントを見ていて「この人の写真めちゃくちゃ暗いけどこれが好きなのかな……」と思っていたが、どうやら自分のモニタ輝度が標準よりだいぶ暗いことに気がついた。

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カレーヌードルが食べたいのでコンビニに行ったが、数十円差に負けてセブンイレブンのジェネリックカレーヌードルにしてしまった。おいしかった。

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くるりの「ワンダーフォーゲル」を聞きながらエアロバイクをこいだらいい感じだった。

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カメラ。持ち歩き用ならAPS-Cかつフィルムシミュレーションが魅力的な富士フイルムがよさそうなのだが、結局レンズがそれなりに大きいんだよなあ。そりゃフルサイズよりは小さいけども……。X-T5って、ネットで写真を見るとそこそこコンパクトなのに実際に店頭で見たらなんで「でかっ!」と思ったんだろう。
レンズ含めて小型化するならマイクロフォーサーズか、それこそコンデジのGRやX100Vしかない。しかし予算や納期は度外視で話をしているわけだが、もちろん実際には納期は我慢するとしても予算は度外視できない。

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なんとなく気分が落ち着かない。

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どうでもいいが(サロメ嬢の存在がどうでもいいという意味ではない)、エセお嬢様キャラというのは「本物のお嬢様に対する理解度(今風の表現をすると「解像度」)が低い(※)ゆえの滑稽さ」が面白いのだと思うが、エセお嬢様としての完成度が高いサロメさんの登場によって「エセお嬢様に対する解像度が低い(ゆえに出来の悪いキャラクター)」という状態が発生しうるようになってしまったのではないだろうか。発生したからなんだというと、どうでもいいのだが……。しかしエセお嬢様に対する解像度の話でいうと、ゲーミングお嬢様が有名になったあたりからすでにあったのかもしれない。というか、私がその方面に詳しくないからよく知らないだけで、もっと前からあったのかもしれない。つまり、何もわからない。今まで書いてきた文章は無駄であった。
※:実際に理解度が低いのか、あえて低いように振る舞っているのかは場合によるだろう。追記:←の書き方は、色々なことをごちゃまぜにしてしまっていたが、書き直すほどの話ではない。

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ファミマで買い物中に店内ラジオ(?)でアニメ調の声の人がしゃべりだして「あ〜何のキャラなんだろう」と頭の片隅で考えていたら「わたくし壱百満天原サロメですわ〜」みたいなことを言い出したので、つくづく、つくづく時代を感じてしまった。ついていけてないですわ!

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(ニコンのカメラ持ってないけども)この図は面白い! レンズってこうなってるんだ。58mm f0.95の構成がすごい。調べてみたら値段もすごかった。重さは2kg。

All current Nikkor Z lenses compared by size and lens design - Nikon Rumors
https://nikonrumors.com/2023/02/11/all-c...

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素人が(私が見た記事を書いたのは素人ではなかったろうと思うが、それはさておき)文章で「軽妙さ」を出そうとすると寒いことになりがちなので、注意しなければならない。

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文体といえば、価格.comのカメラジャンルをたまに覗くと、そこだけ時間が止まっているような文体を見ることができる。(カメラジャンルに限らないかもしれないが、私が見るのはカメラなので)

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ある商業誌のWeb公開記事(非ニュース)を読んだら文体がネトネトして自己満足的で気持ち悪く、対象読者層が中高年男性だとこれが受けるのだろうか……と思った(偏見……)。

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もしも、人工の知性(人工物から派生的に誕生した知性)というものが存在するとして、そのものが人類すなわちホモ・サピエンスが認識できない形で知性ないし意識を有している、従ってホモ・サピエンスは気づくことができない(または今まさにできていない)ということは現実的にありうるだろうか?
↑人工/自然とは関係ないが、この構造を逆転させたのが、「地球の生物とは全く異なる組成の高度な地球外知的生命体が、地球人が生物であることに気づかず侵略および虐殺を行う」という絶望的な状況を描いたいくつかのSF作品だった。しかし当然、それらはあくまでフィクションである。

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hontoから「デ・ラ・メアの『まぼろしの顔』が出ましたよ!」というお知らせメールが来た。『アリスの教母さま』も『アーモンドの樹』も在庫あり表示の本を頼んだのに前者は入荷遅延、後者は入荷なしで注文取り消しになり、何のつもりなのか、もう騙されないぞという思いである。

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写真といえばいよいよロラン・バルトの『明るい部屋』を読むしかないと思ったが高い。

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いらいらすることがあり、いらいらした。

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これは皮肉なのだが、「日本の伝統的な家族観」(なるもの!)を守りたい人たちは、男性が外でバリバリ働き女性は安心して家で子育てをできるように、何をおいてもお給料を上げるべきであった。

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『鉛筆印のトレーナー』をちびちび読んでいる。「古き良き時代」という言葉が頭に浮かぶ内容ではあるのだが(裏表紙の概要にも「『古き良き時代』を感じさせてくれる佳作」とある)、語り手すなわち作家自身が息子・娘家族やご近所さんと濃密な付き合いをしているのは彼固有の環境や人徳によるものが大きく、時代はそこまで関係ないのではないかと思ったりもした。それとも1980年代末〜1990年代初頭は、都市圏(舞台は神奈川県川崎市の生田)でもこれだけの付き合いをしている人が多かったのだろうか。また、2020年代の今でも場所によっては濃密な人間関係が保たれているのではないだろうか? とはいえ、日本が本格的な衰退に向かう前の時代という意味では「古き良き時代」かもしれない。たかだか三十年ほど前を「古き良き」と形容すべきなのかはわからないが。
時代といえば、「結婚を機に仕事をきっぱり辞める娘さんは偉い」という旨の文章が出てきて、ほんの三十年前はそういう価値観が当たり前だったんだなあと妙な感慨に耽った。作中に出てくる妻たちもみんな専業主婦のようだし、奥さんが一生懸命に家事をしていても語り手は手伝おうともせず見ていたりする(これは作家が「観察する」職業だからというのもあるだろうが)。だが、この作品が書かれたのはそれこそ1990年代初頭、作者は戦前の生まれであるのだから、2023年の現在から「価値観の古さ」を責めるのは酷だろう。そういう時代(?)の良し悪しというか裏表というか、長男夫婦の妻が出産した時には妻の両親、夫の両親(つまり語り手夫婦)、語り手の次男家族や長女などが総出で産後のお手伝いに来る描写があり、先ほどの話とは矛盾してしまうが、「いい時代だった」という感想がつい思い浮かんでしまうのだった。