不在
2022-11-23
ふと、「雨もよい」という言葉があったはずだが「雨模様」とは関係があるのだろうか、と調べてみたら、「名詞の下に付けて、そうなる気配が濃いさまを表す。」(大辞林)とのことだった。雨催い(あまもよい)という言葉もあって、こちらには「雨の降りそうな空のようす。雨模様。あまもやい。あめもよい。」(大辞林)とあるので、雨もよいと雨模様とは関係があると言えるようだ。いずれにしろ、すでに雨がしゃらしゃら降っている今日は使えない。(というか、「雨模様」も本来は雨が降っている状態ではなく雨が降りそうな様子を表す言葉なのね)
2022-11-23
西洋哲学は面白いし哲学に触るなら絶対に避けては通れないが、(古代ギリシャの皆さんはもちろん別として)根底にあるのはキリスト教的価値観なのだろうと感じる。全く別の世界観から生まれた哲学にも触れてみたいが……。
2022-11-23
アンスコムは、トロッコ問題(トロリー問題)を扱った『太った男を殺しますか?』に登場していたのもあり、親しみとまでいうと変だが、単なる興味よりは親しみに近いような関心がある。G.E.M.アンスコムはガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコム、すなわち女性哲学者で、トロリー問題の生みの親であるフィリッパ・フット(同じく女性哲学者)と一時期は友人だったが、カトリック教徒(アンスコム)と無神論者(フット)という埋めがたい価値観の違いによりやがて決裂するに至ったと『太った男を殺しますか?』には書かれている。またメアリー・ウォーノックの『考えるあなたのための倫理入門』にも(訳者解説でウォーノックとの関係を述べるという形で)アンスコムやフットの名前が出ていた。そういうわけでなんとなく「別に親しくはないけれどご近所の人」ぐらいの親しみはあるのである。
2022-11-23
『自由と行為の哲学』。デイヴィドソン「行為・理由・原因」に取りかかっているが難しい。一応読んではいるものの正直ほとんど理解できていない。この後のアンスコムはさらに難解らしい。
ヴァン・インワーゲン「自由意志と決定論の両立不可能性」は題名通り、(ある種の)決定論と自由意志が両立しないことを論証している。「決定論が真ならば、私たちは自由意志を持ちえない」(とまとめると意味が違ってきてしまいそうだが)というあまり愉快ではない結論へ向けて、丁寧に外堀を埋められていく様がスリリングでぞくぞくした。
ヴァン・インワーゲン「自由意志と決定論の両立不可能性」は題名通り、(ある種の)決定論と自由意志が両立しないことを論証している。「決定論が真ならば、私たちは自由意志を持ちえない」(とまとめると意味が違ってきてしまいそうだが)というあまり愉快ではない結論へ向けて、丁寧に外堀を埋められていく様がスリリングでぞくぞくした。
2022-11-22
ある創作者(特定の人物ではなく誰でもよい)が、「陰ながら応援しています」と伝えてきたファンに「陰ながらでなく応援してほしい」と望むのもある程度は妥当な要求であると思う一方、陰ながら応援しているということを本人に伝えた時点で真の「陰ながら」ではないのかもしれないといったことを考えていた。実際のところ、「陰ながら応援しています」というメッセージは何を伝えているのだろうか? 陰ながらでない応援の場合、公然と(例えば日頃からその創作者にメッセージを送っているとか、SNSで愛を叫んでいるとかの形で)応援しているということなのか? そうであるとすれば、「陰ながら応援しています」とは、「あなた(の作品)が好きであることを頻繁に公言したりはしていませんが、あなたを応援したいという気持ちを持っており、私はそれを伝えたいと思っています」という意味だろうか?
2022-11-22
『自由と行為の哲学』の息抜きに、講談社ブルーバックス『宇宙の終わりに何が起こるのか 最新理論が予言する「5つの終末シナリオ」』を読み始める。数学や論理学の抽象的な話は(理解できているかはともかく)わりと好きな一方、実際のモノを扱う物理学などの話はどうも苦手なのだが、一般読者向けの本で大変読みやすく面白い。
2022-11-21
『自由と行為の哲学』よりストローソン「自由と怒り」を読む。「決定論が正しいならば、つまり初めから全てが決まっているならば、人は道徳的責任を負わない(負えない)ことになってしまう」という、決定論を踏まえた道徳論・自由論まわりで前提とされている考え方に異議を唱える論。非常に大ざっぱに言うと、社会において実際に私たちが「この行為者には責任がない」と判断する場面を取り上げて、その判断がなされる条件を調べ(例えば行為者が精神病者であるとか子供であるとかいう場合がそう)、決定論はそれらの条件のいずれとも関係がないことを示す。「実際のこういった場面(つまり私たちがある人に責任がないと見なす場面)と決定論に関係がありうるのか? 決定論が仮に正しかったとして、私たちがすでに行っている道徳的実践が影響を受けることなんて本当に考えられるか?」と問うている。これが本の一発目に掲載されているのは熱い。
2022-11-20
アンソロジーでいい短編を読むと、まだ買わなければいけない本があると思って、ぞくぞくするほど楽しくなる。(実のところ、アンナ・カヴァンなんて、有名だし、今さらいい作家だなんて私が言う必要はない。事実、私の本棚にもちくま文庫の『アサイラム・ピース』がある。でも今まではなんだかピンと来ないなと思っていた。それが今、「輝く草地」が突然ぐさっと来た。そうして自分自身で発見することに意味がある。私は今やっとこの作家と出会ったと思う瞬間。)
2022-11-20
ゾンビものは生存者のコミュニティの人間関係がどうこういうのが好きではない。そんなごたごたするならとっととみんな死んでしまえばいいのにと思う。スーパーマーケットに立てこもった人たちの短い間の人間関係ぐらいで限界。
2022-11-20
「銃社会じゃなくてもゾンビ映画を作りたい!」という熱意(想像)が傑作ショーン・オブ・ザ・デッドを世に送り出したはずなので、銃がない国の人にもがんばってもらいたいが……。
2022-11-20
The Last of Us Part I。難易度はさておき、話の作りはめちゃめちゃうまい。さすが名作と謳われたゲームだ。
まずゲーム全体で言うと序章に当たる部分の、平和な日常がまさに今夜終わるという展開の描き方がうまくて、プレイヤーはそのあと文明社会が崩壊することを知っているので(なぜならそっちがゲームのメインだから)そこかしこに見られる崩壊の予兆や噴出する不穏な雰囲気にウワーッとなる。このパートはプレイヤーの操作するキャラクターがほぼ主人公ジョエルの娘サラであるところも巧みだし憎い。子供の視点だから、今この社会で何が起きているのかよくわからない。これが大人(ジョエル)視点だったら、序章時点では大破局は訪れていなくても、増加する暴力事件や謎のカビによってすでに「日常」が蝕まれつつあることが描かれていた(描かざるを得なかった)だろう。でも子供から見た世界なので、プレイヤーはプレイヤーキャラクターであるサラと一緒に「突然崩壊する日常」のさなかに叩き落とされることになる。
ジョエル親子の絆の強さがオープニングの短いやりとりで十二分に語られているところもすごい。そもそも年頃の娘さんに慕われているというだけでジョエルはいいパパに決まっているのである。そして、プレイヤーは当然プレイヤーキャラクターに感情移入するものなので、サラを操作させてサラ&ジョエルに感情移入させたところであの展開。うますぎてひどいぐらいうまい。畳む
まずゲーム全体で言うと序章に当たる部分の、平和な日常がまさに今夜終わるという展開の描き方がうまくて、プレイヤーはそのあと文明社会が崩壊することを知っているので(なぜならそっちがゲームのメインだから)そこかしこに見られる崩壊の予兆や噴出する不穏な雰囲気にウワーッとなる。このパートはプレイヤーの操作するキャラクターがほぼ主人公ジョエルの娘サラであるところも巧みだし憎い。子供の視点だから、今この社会で何が起きているのかよくわからない。これが大人(ジョエル)視点だったら、序章時点では大破局は訪れていなくても、増加する暴力事件や謎のカビによってすでに「日常」が蝕まれつつあることが描かれていた(描かざるを得なかった)だろう。でも子供から見た世界なので、プレイヤーはプレイヤーキャラクターであるサラと一緒に「突然崩壊する日常」のさなかに叩き落とされることになる。
ジョエル親子の絆の強さがオープニングの短いやりとりで十二分に語られているところもすごい。そもそも年頃の娘さんに慕われているというだけでジョエルはいいパパに決まっているのである。そして、プレイヤーは当然プレイヤーキャラクターに感情移入するものなので、サラを操作させてサラ&ジョエルに感情移入させたところであの展開。うますぎてひどいぐらいうまい。畳む